子供のころの想い出の一コマに、小鳥屋さんという存在があります。小さなお店いっぱいにさまざまな小鳥たちが入っていて、鳥かごや鳥のエサなど飼育グッズが売られている。それも工業製品というよりなんだか手仕事のグッズたち。ペットショップとは何かが違う昭和の風景。
10数年前のこと。子どもの頃よく通っていた小鳥屋さん前を通りかかったので、懐かしく思って店をそっとのぞいてみた。店構えはほとんど変わらず昔のままなのに、小鳥が一羽もいない店内には餌だけが細々と売られていた。 店の中に懐かしいおじさんの姿が見えたので、思わず、
「もう、小鳥は売られていないのですか?」と声をかけてみた。
「今の子どもさんはゲームや塾ばかりなのか、小鳥で遊んだりしなくなったようで、飼う人がいないから数年前にやめたんだよ。」商人らしい笑顔のおじさんは寂しそうに答えてくれた。 そうですか。なんだか寂しいですね。私は子どもの頃、よくお世話になってたんですよ。増えたジュウシマツをインコと替えてもらったりして。」
「昔はそうだったよね。よく売れたよ。」
なんだか大切な物が消えてしまったようで、無性に寂しさを感じた。 小鳥は弱いので、まめに世話をしないと簡単に死んでしまう。餌がなくなっていることに気づかずに死なせてしまったことがある。死んでしまったものはどうやっても返ってこない。謝っても取り返しがつかないことがこの世にはあるということを、わずか10センチ未満の小さな生き物から学んでいた。興味あることにかまけ、彼らをぞんざいに扱ってしまったことを何十年もたった今、ふと後悔する。そういった苦い思い出も含め、私達は多くの事を彼らから学ぶ。
今の子供たちの生活の中から小さな動物たちの存在が消えつつあるのは、残念でならない。
もちろん、今もペットショップに行けば小鳥も売っている。だが、小鳥屋さんで買ってくるのとは何かが違う。なにかはっきりとした気構えがおじさんにあった訳ではないのだろうが、小鳥屋さんには小鳥を通じて社会に貢献する。そんな決意と地域力があったように思う。
小鳥屋さんが次々に街から姿を消してしまった。小鳥とおじさんが教えてくれたことを今の子どもたちには誰が伝えるのだろう。そういった大切な物をいくつも私たちはなくしてしまったのではないだろうか?